引っ越し業者のトラックが停まったのは朝の八時で、私はちょうどゴミを出しに出たところだった。隣の303号室のドアが開け放たれて、廊下に段ボールが並び始めていた。
挨拶をしたことはない。顔も、正確には知らない。壁越しの生活音と、玄関前を通るときにドアの向こうから漏れる気配、それだけの隣人だった。
段ボールには几帳面な字で中身が書いてあった。「食器・割れ物」「本(仕事)」「本(その他)」。通り過ぎる二秒か三秒のあいだに、読むつもりもなく読んでしまう。昔からそうだ。見なくていいものが目に入る。入ったものは、勝手に組み立てられてしまう。
食器の箱は、一つだけだった。
廊下の隅に、運び出される順番を待つ家具が出ていた。二人掛けのソファはなかった。一人掛けの椅子が一脚、ローテーブル、小さな本棚。そしてマグカップが——蓋の閉まっていない箱の上に、緩衝材に包まれかけのまま一つだけ載っていた。取っ手が水色の、いかにもペアで売られていそうな形の。
もう一つはどこへ行ったのだろう、と思った瞬間に、思ってしまったことを後悔した。
自転車置き場には、303のシールが貼られた自転車が二台ある。一台は数か月前からカバーをかけられたままで、タイヤの空気が抜けていた。今朝トラックの脇に立てかけられているのは、もう一台のほうだけだった。
そういうことを、私は気づいてしまう。誰にも頼まれていないのに。カーテンが一部屋分だけ外されていること。郵便受けのテプラが二段あって、上の段だけ剥がした跡が白く残っていること。段ボールの総数が、この間取りに二人で暮らしていた場合のちょうど半分くらいであること。
会社でも、辞める人は先に分かる。机の上の私物が一つずつ減っていくからだ。観葉植物、マグカップ、写真立ての順に。誰より早く気づいて、誰より何もしない。送別会の席で「えっ、全然知らなかった」と本気で驚いている人たちのほうが、よほど健全な距離で人と付き合っているのだと思う。
気づいたところで、何ができるわけでもないのだ。「大変でしたね」も「お元気で」も、一度も話したことのない人間の口から出れば、それはただの答え合わせになる。あなたの人生の変わり目を、私は廊下から全部読み取っていましたよ、という。
ゴミを出して戻る途中、303の住人と初めてまともにすれ違った。四十歳くらいの女の人だった。段ボールを抱えていて、私が壁際に寄ると、「すみません」と小さく言った。
「いえ」と私は言った。
それだけだった。たぶん、それだけが正しかった。
部屋に戻って、薄い壁に耳を澄ませるでもなく、台所で水を飲んだ。テープを引き出す音、台車の車輪、業者の短い掛け声。それらは私の生活のすぐ隣で、私と無関係に進行した。昼前にトラックのエンジン音がして、それきり建物は静かになった。
夕方、もう一度ゴミ捨て場の前を通ると、粗大ゴミのシールを貼られたソファが出ていた。二人掛けの、座面の片側だけが深くへこんだソファだった。いつもどちらか一人が、決まった側に座っていたのだろう。
へこみの位置まで読み取ってしまってから、私は目をそらした。観察眼、と昔誰かに褒められたことがある。よく気がつくね、と。そのたびに曖昧に笑ってきたけれど、本当のところは知っている。これは他人の岐路を特等席で眺めるだけの、何の役にも立たない席順のことだ。切符は勝手に配られて、降りることもできない。
隣の部屋は空になった。私は水色の取っ手のマグカップのことを、たぶんしばらく覚えている。頼まれてもいないのに覚えていることだけが、居合わせた者の仕事であるかのように。