母にスマートフォンを持たせたのは五年前で、使い方は結局三つしか覚えなかった。電話に出ること、孫の写真を見ること、歩くこと。三つ目は本人に自覚がない。設定のときに私が家族共有の健康アプリを入れて、母と父と私の歩数が、折れ線で三本並ぶようにしておいたのだ。
電話は月に一度で、LINEは既読がつかない。それでも母の生活は、数字で毎日届いた。四千八百歩の日は生協と友だちの家。九十歩の日は雨。一万一千歩は初詣で、これは私も隣を歩いた数字だ。私が帰省した日だけ、母の線は八千を超えた。張り切って案内するような場所など、何もない町なのに。
文面のない日記のようなものを、私は通勤電車で毎朝読むのが癖になっていた。
数字は、少しずつ減った。平均四千だった線が三千になり、二千になった。多い日が通院日と重なるようになった。膝やろ、と電話の母は言った。秋に倒れて、入院してからは二百歩台が続いた。病棟の廊下の長さを、私はその頃には覚えていた。売店まで往復すると三百二十歩だった。
冬の初めに、線は止まった。
葬儀のあと、アプリを消そうとして、消せなかった。母の欄に0が並ぶのを、それでも毎朝開いて見た。健康のためのアプリの、いちばん不健康な使い方だと思いながら。
四十九日が過ぎた頃の朝だった。母の欄に、二、一四三、と出た。
満員電車の中で、私はその数字をずっと見ていた。誤作動、同期のずれ、と順番に考えて、どれでもないことは最初から分かっていた。二千百歩は、実家の前から堤防に上がり、水門で折り返してくる母の道の距離だ。正月に、私も隣を歩いたことがある。
父は、歩かない人だった。五十年、車の人だった。
電話はしなかった。父からも何も言ってこなかった。ただ翌日も、その翌日も、朝のうちに二千前後の数字が立った。雨の日は0で、そこは母より正直だった。
三月に帰省すると、居間の母の充電器に、母のスマートフォンが挿したままになっていた。玄関には見覚えのない運動靴があった。視線に気づいた父は、「切れると、あれやから」とだけ言った。何が、とは聞かなかった。
新幹線の時間まで、父と堤防を歩いた。水門で折り返すとき、父が前を向いたまま言った。
「母さんは、毎晩おまえのを見とったぞ」
「日付が変わってから増える日は、また残業かて。0の日は、寝込んどるんやないかて」
見る側のつもりでいた、五年間の話だった。私は返事のかわりに、なんか寒いね、と言った。
東京に戻った夜、一駅手前で降りて、歩いて帰った。