その男が来るのは、いつも二十三時だった。
自動ドアの音で分かる。紺の作業着、肩のあたりに白い粉。店がいちばん忙しい時間を過ぎて、僕が揚げ物の什器を洗い始める頃、男はレジ横の蒸し器を指差して、指を一本立てる。肉まんひとつ。それから缶コーヒーの、あたたかいの。会話はそれだけで、それも正確には会話ではない。
僕がこの店の夜勤に入ったのは十月で、男は初日からもう来ていた。だから僕にとって男は、レジの締め方や廃棄の時間と同じ、この店の決まりごとのひとつだった。
観察するつもりはなかった。ただ、レジというのは見えてしまう場所だ。バーコードを通す数秒のあいだに、人の一日がカウンターの上に並ぶ。
最初の頃、男のかごには肉まんのほかに、栄養ドリンクと胃薬が入っていた。ドリンクはその場で飲んで、空き瓶を軽く掲げてから返してくる。十一月、小銭を受け取る男の指に絆創膏が三枚巻いてあった。十二月の半ば、胃薬がかごから消えた。よく眠れるようになったのか、諦めたのか、レジからでは分からない。分からないのに、消えた胃薬に僕は少しほっとしていた。
僕のほうは、何も変わらない冬だった。昼間は面接に落ち続けていた。二次で落ち、最終で落ち、お祈りのメールを夜勤の休憩室で読んだ。履歴書用の写真をこの店のコピー機で焼き増しした夜、ちょうど男が来て、排出口に並んだ僕の顔を見た。何も言われなかった。指が一本、いつものように立っただけだった。それが、その夜はやけにありがたかった。
年が明けて、肉まんがふたつになった。
正確には、肉まんとあんまんがひとつずつ。男があんまんを買うところを想像したことがなかったので、僕は蒸し器のトングを持ったまま一瞬止まった。レジのあいだに男の電話が鳴って、男は「ああ、いま出た。買った。あんまんも買った」と言った。ぶっきらぼうな声のまま、声だけが少し柔らかかった。
それから、ふたつの夜が続いた。あんまんがピザまんになる夜があり、また戻る夜があった。二月のいちばん寒い日、男は初めてレジで口をきいた。「どっちが人気なんだ」。あんまんとピザまんです、五分五分です、と僕は答えた。男は肉まんの列だけ減っている蒸し器を見て、俺が食ってるからか、と言った。冗談だと気づくのに二秒かかって、僕が笑ったときには男はもう小銭を数えていた。
三月の初め、最終面接の帰りにそのまま夜勤へ入った夜があった。制服には着替えたのに、緊張だけが顔に残っていたと思う。男は会計のあいだ、カウンターの内側に立てかけた僕のスーツの袋を一瞥した。何も訊かれなかった。ただその夜だけ、釣り銭を受け取るとき、男は小さく顎を引いた。うまくいったのか、と訊かれたのだと気づいたのは、自動ドアが閉まってからだった。
三月の終わり、僕の最後の夜勤の日が来た。四月から働く先が、ようやくひとつ決まったのだった。中華まんの什器も今季の最終日で、発注はもう絞ってあった。夜のうちに肉まんは売り切れる計算だったから、僕は最後のひとつを廃棄予定の棚から引き取って、二十二時五十分に蒸し器へ戻した。誰のためにとは、伝票のどこにも書かなかった。
二十三時、自動ドアが開いた。
男は蒸し器を指差して、指を二本立てた。肉まんと、あんまん。最後の一個の肉まんは、こんな時間なのに蒸したてだった。男はしばらくその湯気を見て、それから僕を見た。
「兄ちゃん、辞めるのか」
はい、と言った。四月から、別のところで働きます。男は、そうか、とだけ言って財布をしまい、袋からあんまんを出して、カウンターに置いた。
「娘のだけどな。もうひとつ買ってくから、それは祝いだ」
規則がどうという前に、男はもう蒸し器を指差していた。僕は新しいあんまんを袋に入れ、男は二十三時の夜に帰っていった。頑張れよ、とは言われなかった。言われなかったことまで、あたたかかった。
もらったあんまんは、少し考えてから蒸し器に戻した。今季の営業を終える什器の、いちばん最後の一個になった。
朝六時、蒸し器の電源を落とし、あんまんを取り出してから店を出た。空が白み始めていた。歩きながら半分に割ると、湯気が出た。
明日から頑張ろう、と思いかけて、やめた。もう朝だった。今日からだ。